主イエス・キリストの教会 伊那エクレシア


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メッセージ 2026.11.1

神に愛されている者

雅歌全体はソロモンとシュラムの婦人との愛を歌う書です。エペソ人への手紙5章、マタイの福音書22章、25章には花嫁と花婿の話が書かれています。ですので、この書の男女の関係は私達(花嫁)とイエス様(花婿)の関係を比喩で表されています。この聖書箇所からイエス様は私達をどの様に見ておられるかを知る事ができます。

雅歌1章

ソロモン王が作ったこの歌は、ほかのどんな歌よりすばらしいものです。

おとめ「もっともっと口づけしてください。 あなたの愛は、ぶどう酒より甘く、あなたのオーデコロンは、なんとすてきな香りでしょう。 名前もとても魅力的です。 若い娘たちが夢中になるのも無理はありません。私を連れて行ってください。さあ、走って行きましょう。」「陛下は私を、宮殿に連れて行ってくださいました。 私たちは幸せでいっぱいです。 あなたの愛は、ぶどう酒以上です。若い娘たちが夢中になって当然です。」「エルサレムの娘さん、私はケダルの天幕(荒野のアラビヤ人が住む黒いテント)のように、日焼けして黒いわ。 でも、きれいでしょう。」

ソロモン王「いや、わたしの絹の天幕(非常に豪華で美しいテント)のように愛らしいよ。」

おとめ「町の娘さん、そんなに見つめないでちょうだい。 私の肌はとても黒いんですもの。 兄にしかられ、かんかん照りのぶどう園の番をさせられたので、すっかり日焼けしてしまったの。」「私の愛する方、どうか教えてください。 きょうは、羊の群れをどこへ連れて行くのですか。 お昼には、どこにいらっしゃるの。 私は、あなたの仲間に混じって浮浪者のようにうろつき回りたくありません。 いつもおそばにいたいのです。」

ソロモン王「世界でいちばん美しい女よ、それなら、群れのあとについて行って羊飼いのテントを捜しあて、そこで、君の羊と子羊の世話をしなさい。愛する人よ。 君はかわいい子馬のようだ。頬にたれる髪の毛が、とてもすてきだよ。宝石をちりばめた首飾りをつけた首には、気品が漂っている。君のために、金のイヤリングと銀の首飾りを作ってあげよう。」

おとめ「ベッドに横になられた陛下は、私のつけている香水の香りにうっとりしています。私の愛するお方は、乳房の間にある、没薬の匂い袋のようです。」

ソロモン王「私の愛する人は、エン・ゲディ(死海西岸のオアシス)の植物園にある花束のようだ。愛する人よ。 君はなんて美しいんだ。 どう言ったらいいか、わからないほどだ。 目は鳩のようにやさしく、草の上に身を横たえる姿は、まるで絵に描いたようだ。その上に、杉や糸杉が影を落としている。」  リビングバイブル訳

どの箇所が乙女でどの箇所がソロモン王であるかは聖書によって違いがありますが、何れにしても乙女は私達であり、ソロモン王はイエス様です。私達は罪深く汚れた心を持っていて、まるで「ケダルの天幕」の様に黒い存在なのに、イエス様は「わたしの絹の天幕」の様に美しい、「エン・ケディの植物園にある花束のようだ」と言い、2章1節、2節には、平凡な百合ではなく「茨の中に咲く百合の花」の様に特別に美しいと言われています。イザヤ書には43章4節には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言われています。ヨハネの福音書3章16節には、イエス様ご自身のいのちを与えて下さった程に私達を愛しておられると言われています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。  ヨハネ3:16

これほどイエス様は私達を愛しておられるのです。私達がどんなに罪深く心が汚れていても関係なく私達が美しく特別な存在であると言われています。自分自身の目から自分を見ればどうにもならない価値の無い存在であったとしても、イエス様の目から見たら十分に価値のある存在だと言われているのです。

何故黒いけれども愛らしいのでしょうか?先週「いのちの道 と 滅びの道」と書いた物を渡しましたが、イエス様に人生と重荷をゆだねて生活を始めれば、心が清められ美しく愛らしい姿(金のイヤリングと銀の首飾りを付ける)に変えて頂けるからです。そればかりか、世の終わりにキリストの裁きに全ての人が受けますが、滅びの道を選んで(自分中心の人生)古い自分のまま生きて、婚礼の服(愛)を着ることなく外の暗闇に放り出されるのか,いのちの道を選んで、婚礼の服(愛)を着て婚礼に出席出来るのかが決まります。

イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」  マタイ22:1~14

イエス様に人生と重荷(石)をゆだねて“いのちの道”を歩み喜ぶのか、自分の人生は自分で決めて“滅びの道”に歩み世の終わりに泣いて歯ぎしりするのかはあなた自身が決める事です。自分が如何に罪ある存在である事(ケダルの天幕)を認め“いのちの道”を選んで歩みましょう。