主イエス・キリストの教会 伊那エクレシア


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メッセージ 2026.6.21

赦し と 清め

イエス様は私たちを愛しておられます。愛しておられる故にご自分を献げて下さいました。この事によってイエス様の十字架の死と甦りを信じる信仰によって罪の赦しを得る事が出来又、心の清めを得る事が出来る様になりました。この事について学びましょう。

1.罪の赦し

人類の始祖アダムとエバが神様から言われた事を守らなかった(罪)故に神様と私たちとの関係が絶たれてしまい、私たち人類は天の御国に入り永遠のいのちを得る事が出来なくなり、地獄に行く(滅びる)様になってしまいました。神は人類が地獄に入る様になってしまった人類を救う為に一人子イエス様を与えて下さいました。このイエス様を信じる信仰によって天国に入り永遠のいのちを得る事が出来る様にして下さいました。あたかも犯罪者が保釈金を払って牢獄から出て自由の身になれる様な感じです。イエス様が保釈金を支払って下さったのです。

ヨハネの福音書316

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

人類はアダムとエバが犯した罪のゆえに罪を犯す者になってしまいました。人類最初の犯罪はアベルとカインの時に起きました。神に捧げた捧げ物の事でカインを恨みアベルを殺してしまいました。人類は殺人だけでなく姦淫、盗み、偶像礼拝、魔術等様々な罪(律法違反)を犯す者となってしまいました。私たちは人生の中で様々な罪を犯しています。目に見える罪だけでなく、心の中での罪を犯します(マタイ52144)。以前に犯してしまった罪、今後犯してしまうかもしれない罪を含め全ての罪はイエス様を信じる信仰によって赦されます。

すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕    ヨハネ8311

2.心の清め(罪からの解放)

 私たち人類は罪を犯し易い者となり(罪の性質)、悪魔はこの罪の性質を利用し私達をコントロールしています。罪の奴隷状態となっています。しかし、十字架を仰いでイエス・キリストを信じることによって清めてくださり、罪の奴隷状態から解放し、自由にしてくださいます。

テトスへの手紙214

キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。

キリスト様は、私たちの罪のために、神様のさばきを受けて死んでくださいました。 それは、罪のどろ沼にはまり込んで、どうにも動きのとれない私たちを助け出して、ご自分の民とし、心のきよい、熱心な、善意の人と変えてくださるためでした。                    リビングバイブル訳

私は清めて頂く前は怒りに満ちていました。妻から言われる一言一言が頭にきて不機嫌でした。「洗濯物を干しておいてくれない」とか、「食器を洗っておいてくれない」と言われると「どうして妻から指図されなければいけないの?」・・・と頭にきていました。妻はお金の管理が苦手なのでお金があれば使ってしまうタイプです。その事で何度も暴言を吐いていました。自分の思い通りにならないので怒っていました。その他、家庭の中で、会社の中で、いたるところで頭にきては、様々な物を壊して(こわして)いました。歩き方もドシドシと音をたてて歩いて怒りを床に発散(はっさん)していました。会社では工作機械に八つ当たりし機械を蹴飛ばしたりしていました。品質検査があまりにも厳しいので検査担当者に悪口を言っては、書類をクシャクシャに丸めてポイ・・・と捨てたりしていました。子供が障害者であり子育てをどうすれば良いのか分からずに、不安と悩みの中で思い生活していました。いくら叱っても注意しても変わらず思い煩(わずら)っていました。人に対する恐れがあり、自分の意見を言う事が出来ませんでした。悪魔・悪霊は、これらの思いを利用し増幅させていました。自分でも悪口を言いながら悪霊の働きを感じるほどでした。何時(いつ)も私の心の中に働きかけてくる悪い思いは私を離れず、憂鬱(ゆううつ)で平安が無く、喜びがありませんでした。私は古い罪の性質に捕らわれて、やってはいけない事とは知りながら、暴言をはき、反省し、また暴言をはいては、反省の連続でした。

 以前の教会の状態を振り返ってみると、裁きがあった事を思い出します。兄弟姉妹の裁き合い、牧師と信徒間の裁き合いがありました。〇〇さんはこんな事をしたのよ、〇〇さんは□□であるべきだ、〇〇兄弟は嫌いだ・・・と言う具合に悪口を言い裁き合っていました。教会の中では優しい信徒、教会から一歩でれば世の人と同じ様に陰口でした。私自身も教会では穏やか(おだやか)な牧師、家庭の中では怒ってばかりのこの世の人でした。信徒から愚痴を聞かされる事がありましたが、私にはどうする事も出来ない状態でした。なぜなら、自分が常に妻を裁き、隣人を裁いていたからだと思います。

 この様に悪魔・悪霊は罪の性質を利用して自分を縛り、兄弟姉妹を縛り付けて、夫婦関係、家族関係、兄弟姉妹の関係が悪化してしまいました。ヨハネの福音書1010節に、盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりませんと書かれている通りです。

しかしながら、自分が罪の性質を持っていて、罪を犯し易い弱い存在である事に気付かされ、人を傷付けていた事を告白し、イエス様に石のように堅い罪の心をささげた時、イエス様は石を取り除いてくださり、怒り・恐れ・不安・心配・思い煩いなどに捕らわれる事が無くなり、生活に変化が生じて来ました。怒りや恐れから解放されたただけで無く、御言葉が分かり易くなり、隣人を愛する事が出来る様になりました。中東への短期宣教への帰りに、妻への愛情が湧いてきて、涙が止まらない体験をしました。妻への感謝の気持ち、何かプレゼントを買ってあげたい思いが湧いてきて、服を買って来た程です。日常生活でも賛美しながら積極的に洗濯物を干し、食器を洗う事もする様になりました。愛の生活が始まった様に思えます。 

イエス様の十字架の死と甦りによって罪の赦しと心の清めが与えられます。神様との関係が回復し、過ちが赦され、汚れた心から解放され、神を愛し、自分を愛し、人を愛する者へと変えられて行きます。